Battleships
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戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません |
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戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです |
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映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です |
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参考文献、小説や書籍に登場する事柄です |
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インターネットやTVゲームに登場する事柄です |
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不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です |
常備排水量:23,360t 全長:181.2m 幅:26.6m 吃水:8.4m 主缶:ヤーロー缶25基 主機/軸数:パーソンズ式タービン4基(直結)/4軸 出力:42,000馬力 速力:23.0kt 燃料搭載量:石炭3,000t、重油1,170t 航続力:16.0ktで4,000浬 兵装:52口径305mm3連装砲3基、120mm単装砲16基、47mm単装砲4基、457mm水中魚雷発射管4門 装甲:水線229mm、砲塔203mm、甲板76mm、バーベット203mm、司令塔254mm 乗員:1,126名
- ※1905年の対馬島の戦いでの壊滅的な敗北により、ロシアは近代的な戦闘艦隊のほとんどを失った。ドイツに対して優位に立つためには、艦艇の速度を21kt以上にする必要があると早い段階で決定された。ロシア人は、いずれにせよ戦列は互いに舷側から射撃するため、真横からの射撃よりも舷側からの射撃の方が重要だと考えており、背負い式の砲塔が役に立つとは思わなかった。全長181.2m、全幅26.9m、喫水8.99mのガングート級は、排水量24,800tで、設計より1,500t多かった。そのため、乾舷は設計より16インチ短く、わずかに船首がトリムされ、船が濡れる原因となった。主砲は、全長にわたって4基の3連装砲塔に12×52口径12インチ砲を装備していた。副砲は船体側面から突き出た砲郭に収められた16×4.7インチ砲だった。装甲はほかのヨーロッパやアメリカの設計に比べると劣っていた。ロシア人は、層状の装甲システムが、砲弾のキャップを剥がして全てのエネルギーを失わせることができるので優れていると信じていた。しかし、これは宣伝どおりに機能した。舷側は最も厚いところで8.9インチ。甲板は2インチの装甲で保護されていた。砲塔の表面は8インチの厚さで、砲塔を保護する5.9インチの装甲があった。司令塔は10インチの装甲で保護されていた。合計で4隻が就役した。セヴァストポリは1914年11月、ポルタヴァは1914年12月、ペトロパヴロフスクは1915年1月、ガングートも1915年1月。ドイツ帝国海軍は北海でイギリス軍と戦うのに忙しかったため、この4隻は第一次大戦中はほとんどあるいは全く運用されなかった。4 隻全てが革命で共産党側についたが、内戦中に使用されたのはペトロパヴロフスクだけで、ほかの3隻は人員不足で保管されていた。ポルタヴァは火災で機関室が焼失し、就役不能となった。修理の提案がなされたが、実現することはなかった。残りの3隻は1930年代前半に近代化され、完全に時代遅れでソヴィエト海軍にほとんど役に立たなかったため、第二次大戦での使用は限定的だった。ペトロパヴロフスクはマラートに改名され、前部弾薬庫が爆発したのち、1941年に係留地で爆撃され沈没した。後部は引き上げられ、対空砲の砲台として使用された。残り2隻の船は全て1950年代前半から半ばまで使用され、そののち全て廃棄された
↑戦艦ガングート(新造時)
↑戦艦ガングート(改装後)
- ※帝政ロシア海軍は最初の弩級戦艦を建造するため、イギリス、ドイツ、イタリアなどの外国造船所に技術協力を求め、1907年に国内も含め27社51種の設計案を受ける。この時、ニュー・ヨーク造船所もこのコンペティションに参加。1907年8月20日にこの設計案を提出。奇抜な主砲塔が特徴(3砲身中、中央砲身が一段高い)。結局、ロシア国内での設計、建造に落ち着いた。これがのちのガングート級にいたる
↑ブロム&フォス・ハンブルク627F案 Blohm&Voss Hamburg Study 627F.
↑アンサルド社クニベリティ技師1907案 Ansaldo-Cuniberti Study 1907.
↑ニュー・ヨーク造船所1907年8月20日案 New York shipbuilding company to the contest on August 20, 1907.
↑Image courtesy of Shipbucket.
- ※1934年、改装後のオクチャブリスカヤ・レヴォルティヤ
↑Image courtesy of Shipbucket.
- ※近代化された対空砲を搭載した1941年のオクチャブリスカヤ・レヴォルティヤ
↑Image courtesy of Shipbucket.
- ※オクチャブリスカヤ・レヴォルティヤは、数回の修理(ドイツ空軍の攻撃による損傷)を経て、1942年に改良された対空砲を搭載した
↑Image courtesy of Shipbucket.
- ※1944年、貸与された279型レーダー・セットを受領したオクチャブリスカヤ・レヴォルティヤ
↑Image courtesy of Shipbucket.
- ※1928年から1931年にかけて近代化改修されたマラート
↑Image courtesy of Shipbucket.
- ※1941年、対空武装が近代化されたのちのマラート
↑Image courtesy of Shipbucket.
↑Image courtesy of Shipbucket.
- ※1930年、パリスカヤ・コンムナは、トルコの巡洋戦艦ヤウズの改修と再就役に応じて、バルト海から黒海に移動された。出航する前に、船首の延長部分を接合したが、荒れた海で引き裂かれ、漏れて水が入ったため、うまくいかなかった
↑Image courtesy of Shipbucket.
- ※マラートとオクチャブリスカヤ・レヴォリューツィヤの以前の改修から学んだ教訓を生かし、最後の改修はさらに大規模になり、完了するまでに5年を要した
↑Image courtesy of Shipbucket.
- ※改修後、この船はかなり上部が重く、荒れた海でかなり激しく揺れることが判明した。1939年後半、船は乾ドックに戻り、ブリスターが追加された。また、元の船体と新しいブリスターの間に空間が追加され、耐久性が向上した
↑Image courtesy of Shipbucket.
- ※1941年、37mm砲の強化された対空砲を搭載したパリスカヤ・コンムナ
↑Image courtesy of Shipbucket.
※貸与された290型と291型レーダーを受領した1944年のパリスカヤ・コンムナ
↑Image courtesy of Shipbucket.
艦名 | NAME | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
ガングート | Gangut | Admiralty Works, Saint Petersburg | 1915/1/11 | 1956/2/17 | ◎1909/6/16 起工 ◎1911/10/20 進水 ◎1914/12 竣工 ![]() ◎1918 乗組員たちはバルチック艦隊の反乱に参加し、ボリシェヴィキに加わった ◎1925/6/27 オクチャブリスカヤ・レヴォリューツィヤ Oktyabrskaya Revolutsiyaと改名 ◎1926/3/23 再役 ◎1931 改装(〜1934、艦首のクリッパー化、前檣・艦橋構造・後檣・後部構造の改正・整備と第一煙突の屈曲・誘導化。ほかにも対空兵装強化、重油専用ボイラー、タービン換装などが行われた。改装以前に積まれていた25基のボイラーはボロジノ級戦艦のために設計されていたボイラーと変えられている。また、第3主砲塔上へカタパルトと航空機を搭載し、後檣に揚収用のクレーンが設置されるが、航空兵装関係は1941年に撤去) ◎1939/12/19 ソヴィエト連邦とフィンランドの間に起こった冬戦争に参加 ◎1941/6/22 独ソ戦開始後にはタリンからクロンシュタット軍港に後退するが、レニングラード包囲戦の進展に伴いナチス・ドイツ軍航空機の空襲を受ける ![]() ![]() ◎1943年1月12〜16日にはイスクラ作戦に参加 ◎1944年1月、レニングラードの包囲が完全に解けるまでネヴァ河在泊の第二部隊に属し、主砲による1,140回の砲撃が行われ、レニングラード包囲の全面的解除作戦に参加する ◎継続戦争におけるヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢に参加し、ヴィボルグ湾に進出して上陸作戦を支援 ![]() ◎1954/7/24 練習艦となる ◎除籍後、解体 ![]() |
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◎ニックネームはOktyabrina | ||||||
ペトロパヴロフスク | Petropavlovsk | Baltic Works, Saint Petersburg | 1915/1/5 | 1953/9/4 | ◎1909/6/16 起工 ◎1911/9/22 進水 ◎1914/12 竣工 ◎ロシア革命によりソヴィエト政府がドイツ帝国と講和条約を締結したことにより、それまで味方であった連合国側に攻撃されてしまう。 ![]() ![]() ◎1921/3/31 マラート Maratと改名 ◎1928年から1931年に、2年半かけて近代化改装工事が行われる。これにより艦橋構造物の大型化と第一煙突の屈曲・誘導化で艦型が一新された ![]() ![]() ◎第二次大戦勃発後、本艦とレヴォリューツィアはバルト海に配備され、パリスカヤ・コンムナは黒海に配備された ◎フィンランドとの冬戦争では、1939年12月19日にコイビスト島ザーレンペー砲台に対する砲撃に参加した。冬戦争時に対空兵装の近代化が行なわれ、また航空兵装は撤去された ![]() ◎1941/10/31 砲撃能力のみの応急修理が成功した。そののち引き揚げられ浮き砲台として使用 ![]() ![]() ◎1943/5/31 ペトロパヴロフスクと改名 ![]() ◎1950/11/28 ヴォルコフ Volkhovと改名 ◎1951/9/25 砲術練習艦となる ◎1953 解体 |
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ポルタヴァ | Poltava | Admiralty Shipyard, Saint Petersburg | 1914/12/30 | 1918/10 | 1940/12/1 | ◎1909/6/16 起工 ◎1911/7/23 進水 ◎1914/12/17 竣工 ◎ヘルシンキにて就役 ![]() ![]() ![]() ◎1950/11/28 フルンゼ Frunzeと改名 ◎1950年代中ごろ レニングラードにて解体 |
セヴァストーポリ | Sevastopol | Baltic Works, Saint Petersburg | 1914/12/30 | 1956/2/17 | ◎1909/6/16 起工 ◎1911/7/10 進水 ◎1914/11/17 竣工 ◎1921/3/21 パリスカヤ・コンムナ Parizhkaya Kommunaと改名 ◎1924〜25年、近代化改装を受ける。艦首のクリッパー化、前部煙突を若干高め上端部を斜め後方に屈曲させるなど艦容が変化。測距儀と対空火器を増設 ◎1925/9/17 再役 ◎1929年11月22日〜30年1月18日、バルト海から黒海に回航。以後、黒海艦隊の旗艦 ◎1936〜1939年、セヴァストポリ造船所で近代化改装を受ける(重油専焼缶への換装、前後の艦橋構造物の大型化、観測用水上機の搭載と揚収用の大型クレーンの設置、バルジの設置などが行われた。バルジ設置のため、幅が同型艦2隻より約5.4m広くなっている) ◎1942年3月23日、ポチの造船所に入渠。修理と主砲の換装を実施 ◎1943/5/31 セヴァストーポリと改名 ◎1944年5月11日、黒海艦隊旗艦 ![]() ◎1957 解体 ![]() |
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◎ニックネームはParizhanka (Parisienne) |
Update 25/04/05